青天の霹靂


【 2005.03.16.AM 】



出社して私は掃除、アサノさんはメールのチェック、それぞれの仕事を始めた。
やれ昨日のおかずは失敗しただの、うちは唐揚げが3日目でげっぷが出そうだの
他愛もない話で朝からテンション高めの気のあうボスと子分。
賑やかないつもと変わらない朝の光景、のはずだった。



メールのチェックが一段落したアサノさんがゴミ箱の中身をかたつけようと人事のデスクのほうへ向かう。
『あー、また誰か辞めるんだー・・・』
アサノさんは人事のデスクに置いてあった辞職願を見つけて虚しい声をあげた。
気になった私も掃除の手を止め彼女のほうにその辞職願を見に行く。
「あらー、またですかー・・・ん?」



彼女の持つ辞職願をよく見る。
封は開いていない。
「・・・アサノさん、これ、どこかでみたことのある字じゃありませんか?」
表書きの文字をまじまじと見直すアサノさんの顔色がだんだん青ざめてくるのがわかった。
『小黒さん・・・これ・・・まさか!?』



刹那、2人とも凍りついた。
どちらもよく目にする文字だった。
そりゃよく知ってるはずである。



その字はアサノさんのさらに親分、経理課長代理の手による字に非常よく似ていた。
いつも忙しいのに重ねここ最近支払いの問題で業者と揉めていた経理課長代理、
3分に1回は溜息が出ていたのを二人とも知っている。
辞めるのであればそれは仕方のないことだけど
やはり辞められてしまうと思うと気分は果てしなくディープになる。



『・・・嘘ですよね・・・違いますよね・・・何かの間違いですよね・・・』
アサノさんの顔色がさらに悪くなる。
何かこれが間違いであるとの確証を探そうと私は経理課長代理のデスクに向かった。




私は経理課長代理のデスクの上に何気に置いてあった走り書きのメモを見つけた。
辞職の『辞』のつくりの部分の立の字の上の点は普通なら左上から右下に入るものである。
見つけた辞職願いのその部分は左上から右方面に半月を描いて左下に向かう変わったものだった。



メモに書かれた文字で同じような点がある漢字を見つけた。
はたして経理課長の点は見事な半月を描いていた。辞職願いと同じ左側に弦のある半月。



アサノさんは既に卒倒しそうな様相だった。
先日経理課長代理が休日をとった際、アサノさんがその代理として銀行や支店間を走り回った。
彼女はその時のことを『1日で既にげっそりでした』と笑わない目で語っていた。



「もしかしたら辞める人は別な、例えばお店のほうの人なのかも知れないじゃないですか?
確実でない情報から結論を導き出してうろたえるのはやっぱ可笑しいっすよ。とりあえず忘れましょうよ」



『小黒さん、でも私聞いたことがあるんです。
役職のない平社員が書くのが退職願、役職持ちが書くのが辞職願、
この会社で役職持ちと言ったら数える程度ですよ。社長、部長、経理課長は確実に辞めないでしょう。
そうなるとあと該当するのはこのフロアにいる3人・・・その中でこの字を書くのは・・・』



さっきまでの明るい朝の光景はすっかり冷え切ってしまい
すっかり鉛のような空気になってしまった社内で私達はそれぞれの仕事をこなし始めた。
言葉は何も出てこない。
そういえば昨日の経理課長代理は殆ど溜息をつかなかったっけ。
もしかして辞職願を出してすっきりしちゃったのかな、とか私は余計なことを考えていた。



人事の人とも懇意ではあるがやはり聞けない。
封を切らなくても誰の手の物だかわかるから封が切られていなかったのだろうか。
いろいろと頭の中で考え事をしていたせいで私はその日、計算を何度も間違えた。
他の人に対する態度は変わらなかったが彼女と2人になると瞬時に空気が重くなった。
その空気は退社時間になるまで変わらなかった。



【 2005.03.17.AM 】



翌日、顔をあわせた我々はやはり昨日のショックが消えずにいた。
彼女はおかしな夢にうなされて起きたたものだから食欲もなく朝から表情が暗い。
私も朝からぼんやり感が抜けずにいた。



朝の作業をしながらのおしゃべりは言葉少なで
やはり口から出るのは昨日の辞職願のことだった。




しばらくの沈黙の後、アサノさんが決意した表情で口を開いた。
やはり人事の人に聞いてみよう、
もし経理課長代理が辞めるのであれば我々の仕事も変わってくるのだから
聞いても咎められることではない、と。
私は、わかりました、では、人事の人が来たら私は席を外します
1対1の方が話し掛けやすいでしょう、と返す。



少しすると人事の人が出社してきた。
アサノさんのアイコンタクトを受けて私はおもむろにトイレに向かった。
出て行くタイミングがつかめないなぁ、
それよりも2人の想像が的中してしまったらアサノさんにかける言葉が見つからないや、
いろいろ考えながらトイレに腰掛けて2〜3分ほど待機。



なんでもない顔でトイレから出てきた私の耳にアサノさんの快活な声が飛び込んできた。
『小黒さん、解決で〜す』とグーサインで笑う彼女の顔。
事情がつかめず呆けた私の顔を見てアサノさんと人事の人がさらに笑う。



結局、辞職願は経理課長代理のものではなかった。
持ってきたのは経理課長代理なのだが
朝方お店を回って集金をしたりしてから出社する経理課長代理が
お店の人間から預かってきたものだったのだ。
更に言えば社長、部長、経理課長以外の役職持ちの皆さんは
お互いにちょっとしたお約束を交わしているそうで
とりあえず会社がつぶれるまではここにいることにしよう、となっているのだそうだ。



それにしてもよく似た字ですよね、と言って検証に使ったメモを人事の人に見せる。
あー、ほんとだ、似てるわー、と辞職願とメモを交互に見比べていた。



そのちょっとあと、実に見事なタイミングで出社してきた経理課長代理。
今までのエピソードをアサノさんが笑いながら話す。
ハトが豆鉄砲を喰らった顔の経理課長代理。
『この字があんまりTさんの字にそっくりだから・・・ほら!!』
件の辞職願を突きつけるアサノさん。



「似てないって〜」



経理課長代理のその叫びとアサノさん、人事、私の笑い声で
私達2人の長い長い24時間とちょっとは一番安穏な形で幕を下ろした。



今日のお昼の飯のうまかったことうまかったこと。
アサノさんも私も一気に緊張の糸が切れてハイテンションで話し続けた。



勘繰りすぎてキリキリマイをするのはもうやめよう。